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  資料名 著者 内容 年代 地域 データベース 所蔵  
1 荷を付けた馬の引き綱を持つ男の子 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした 昭和9(1935) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
2 筵機で筵を織る吉田三郎の母 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・当該資料のネガの端に「ムシロオリ 吉田三郎君母君」(黒ペン)とあり 昭和9(1935) 寒風山麓脇本村吉田三郎本家 写真資料 日本常民文化研究所
3 手に鎌を持ち草刈りに行く際の格好をする女性(吉田三郎兄の妻) 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・背景に写る家屋がア-47-9と同じ小屋と判断しで撮影地は脇本村吉田三郎本家とした・当該資料のネガの端に「草刈りに 脇本村」(黒ペン)とあり、撮影地、題名はこれによった 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
4 脇本村の道中の井戸と子供たち 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・当該資料のネガの端に「脇本村の道中の井戸」(黒ペン)とあり、撮影地はこれによった 昭和9(1935) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
5 魚を売る行商の女性二人(全身、正面) 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・当該資料のネガの端に「サカナ小売行商女 脇本村」(黒ペン)とあり、題名、撮影地はこれによった 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
6 男鹿のナマハゲ 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・当該資料のネガの端に「ナマハゲ」(黒ペン)とあり 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
7 板壁の様なところにかけられた目玉餅 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・「目玉餅」とは『男鹿寒風山農民手記』p.42に「目玉餅。これも人々が最初苗代で仕事した時たべる餅です。十二ヶ月ある年は十二本の藁に、十三ヶ月ある年は十三本の藁にそれぞれ餅をつけます。同じのを二つ作ります。」とあり、また同書p.155に「正月十一日は、ナマハゲの面を作ったり、修繕したりする外に、若木迎へと申して、小正月に使用する、生柴、?ノ木、門松、柳目玉を作る柳、等々を伐って来る日です。」とあり 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
8 多くの草ぶき屋根の家屋(小屋)と砂泥状の土地、脇本村の海岸 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・当該資料のネガの端に「脇本村海岸」(黒ペン)とあり、撮影地はこれによった 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村海岸 写真資料 日本常民文化研究所
9 馬に荷をつけ跨る魚売りと道脇にいる吉田三郎 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・写3-7はア-47のネガでありア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・当該資料のネガの端に「サカナウリ」(黒ペン)「吉田三郎君」(黒ペン)とあり、撮影地はこれによった 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
10 吉田三郎宅と雪が残る畑 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・写3-7-12の白色無地の封筒に入っていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「秋田県南秋田郷脇本村大倉付近」とあり・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・当該資料のネガの端に「吉田三郎君宅」(黒ペン)とあり、撮影地はこれによった 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村吉田三郎宅 写真資料 日本常民文化研究所
11 フゴ・テカゴを持った女の子 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・ア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・フゴとは『男鹿寒風山農民手記』p.40「その(トヅラのこと。植物)良い品の取れる所では、これで色んな物を入れるコダシ(第九図参照)といふ物を作ります。取れない村では藁でこのコダシの代用になるフゴといふのを作つて使用してゐます。」とあり・収穫しているものを運んでいる、ジャガイモだと思う。ムシロを二つ折りにしたものをにひもをつけて背負う(吉田総恵談。2007年3月29~31日の常民研調査) 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村富永大倉 写真資料 日本常民文化研究所
12 男鹿のナマハゲ 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・ア-47が『男鹿寒風山農民手記』関係の写真が多い。そのため撮影地は脇本村、また撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした、また『男鹿寒風山農民手記』p.48に同状況の別カット(高橋文太郎作)がある・兄の家。ナマハゲ。こういうナマハゲが来ておっかなかった。悪い子は皮を剥がされると聞かされていた(吉田総恵談。2007年3月29~31日の常民研調査)・当該資料のネガである写3-7-7のネガの端に「ナマハゲ」とあり 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
13 ヒナガアデ(背中あて)をあてた女性(全身、背面) 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・背景に写る家屋がア-47-9と同じ小屋(板戸の穴など)と判断しで撮影地は脇本村吉田三郎本家とした・題名のヒナガアテはア-44-45を参照・ア-47-27、30と同状況の写真・これは兄さんの嫁さんの様な気がする。後ろの格好(吉田総恵談。2007年3月29~31日の常民研調査) 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村吉田三郎本家 写真資料 日本常民文化研究所
14 馬に荷をつけ跨る魚売りと道脇にいる吉田三郎 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・ア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・当該資料のネガである写3-7-10に「サカナウリ 吉田三郎君」とあり、撮影地はこれによった 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
15 ヒナガアデ(背中あて)を背に背負い鎌を持った女性(全身、斜め背面) 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・背景に写る家屋がア-47-9と同じ小屋と判断しで撮影地は脇本村吉田三郎本家とした・題名のヒナガアテはア-44-45を参照・ア-47-25、30と同状況の写真 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村吉田三郎本家 写真資料 日本常民文化研究所
16 多くの草ぶき屋根の家屋(小屋)と砂泥状の土地、脇本村の海岸 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・ア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・旅行の…?(吉田総恵談。2007年3月29~31日の常民研調査)・当該資料のネガである写3-7-9の端に「脇本村海岸」とあり、撮影地はこれによった 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村海岸 写真資料 日本常民文化研究所
17 板壁の様なところにかけられた目玉餅 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・ア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・「目玉餅」とは『男鹿寒風山農民手記』p.42に「目玉餅。これも人々が最初苗代で仕事した時たべる餅です。十二ヶ月ある年は十二本の藁に、十三ヶ月ある年は十三本の藁にそれぞれ餅をつけます。同じのを二つ作ります。」とあり、また同書p.155に「正月十一日は、ナマハゲの面を作ったり、修繕したりする外に、若木迎へと申して、小正月に使用する、生柴、?ノ木、門松、柳目玉を作る柳、等々を伐って来る日です。」とあり・お正月にぶら下げる。ア-44-51と同じ。仏様や神様に供える餅。おやつとして食べる乾し餅の四角い餅とは違う(吉田総恵談。2007年3月29~31日の常民研調査) 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所
18 ヒナガアデ(背中あて)をあて縄を持った女性(全身、斜め正面) 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・ア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・背景に写る家屋がア-47-9と同じ小屋(板戸の穴など)と判断しで撮影地は脇本村吉田三郎本家とした・題名のヒナガアテはア-44-45を参照・ア-47-25、27と同状況の写真・百姓の格好。顔を隠す、陽にやけるから。畑に背負っていく(吉田総恵談。2007年3月29~31日の常民研調査) 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村吉田三郎本家 写真資料 日本常民文化研究所
19 筵機で筵を織る吉田三郎の母 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・ア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・総恵さんの話や背景に写る家屋がア-47-9と同じ小屋(板戸の穴など)などから判断しで撮影地は脇本村吉田三郎本家とした・(三郎の)お母さん、お兄さんと一緒に住んでいた。これは兄の家。筵を織る。織物と同じ。寒いから暖かい所で陽にあたりながら外でやっていたのではないか。冬になればうちの母(吉田勝江)もこうして筵を織った。(吉田総恵談。2007年3月29~31日の常民研調査)・当該資料のネガである写3-7-3のネガの端に「ムシロオリ 吉田三郎君母君」とあり 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村吉田三郎本家 写真資料 日本常民文化研究所
20 脇本村の道中の井戸と子供たち 高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文 ・撮影日は『男鹿寒風山農民手記』p.1大西伍一「序に代へて」(昭和十年一月八日)の「その上この原稿の挿絵の撮影かたがた君の村を見たいとのことで、澁澤子爵石黒忠篤氏其の他民俗研究者の一行八名が君の家を訪れたのは去年の九月のことでした。」とあり、これによった・ア-47では『男鹿寒風山農民手記』関係の写真で纏められている。そのため撮影地は脇本村、撮影者は『男鹿寒風山農民手記』に掲載する写真撮影等で訪れた研究者(高橋文太郎、大西伍一、木川半之丞、村上清文。『男鹿寒風山農民手記』写真目次掲載より)とした・これは何だろう、どこだかわからない、記憶ない(吉田総恵談。2007年3月29~31日の常民研調査)・当該資料のネガである写3-7-5のネガの端に「脇本村の道中の井戸」とあり、撮影地はこれによった 昭和9(1934) 寒風山麓脇本村 写真資料 日本常民文化研究所

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