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  資料名 著者 内容 年代 地域 データベース 所蔵  
1 山形県西置賜郡小国町町原の通りと手に日の丸を持って飛行機を迎える子ども達 渋沢敬三・高橋文太郎・早川孝太郎・村上清文 ・本資料はナンバリングからアルバム39から抜き出されたものと見られる。アルバム39は全体が調査風景や調査内容、引用・使用媒体から昭和八年五月に行われた澁澤敬三・高橋文太郎ほか2名の山形県米沢から新潟県三面の調査と見られ、撮影者・撮影日・撮影地域など詳細はこれら調査をまとめた高橋文太郎「朝日山麓三面村記」(『山岳』第28年3号)による写1-12-4に高橋文太郎、早川孝太郎が写っており、また、渋沢フィルム13「越後三面行」01:18には車中で眠る村上清文の様子が映されており、これらのことから一行は澁澤敬三・高橋文太郎・早川孝太郎・村上清文とし撮影者もこれによる・高橋文太郎「朝日山麓三面村記」(『山岳』第28年3号)p40に本資料についての記述があり、題名はこれによる 昭和8(1933) 山形県西置賜郡小国町町原 写真資料 日本常民文化研究所
2 山形県置賜郡小国町栃倉の仁科家の民家とその前に集まるアチックの人々 渋沢敬三・高橋文太郎・早川孝太郎・村上清文 ・本資料はナンバリングからアルバム39から抜き出されたものと見られる。アルバム39は全体が調査風景や調査内容、引用・使用媒体から昭和八年五月に行われた澁澤敬三・高橋文太郎ほか2名の山形県米沢から新潟県三面の調査と見られ、撮影者・撮影日・撮影地域など詳細はこれら調査をまとめた高橋文太郎「朝日山麓三面村記」(『山岳』第28年3号)による写1-12-4に高橋文太郎、早川孝太郎が写っており、また、渋沢フィルム13「越後三面行」01:18には車中で眠る村上清文の様子が映されており、これらのことから一行は澁澤敬三・高橋文太郎・早川孝太郎・村上清文とし撮影者もこれによる・高橋文太郎「朝日山麓三面村記」(『山岳』第28年3号)p40-41に本資料についての記述があり、題名はこれによる 昭和8(1933) 山形県置賜郡小国町栃倉付近 写真資料 日本常民文化研究所
3 北設楽郡田口町の馬市にて競り人に囲まれる仔馬 村上清文・早川孝太郎 ・ア-25-18-1~6は同じ台紙に貼られている。撮影場所は同じ台紙に貼られているア-25-18-3がア-25-19と同一場面であることから北設楽郡田口町と推定した。本資料は高橋文太郎・村上清文・窪田五郎による昭和8年9月4日の段戸山登山時の写真と考えられる、ただし、典拠となる「原田日記」は非公開であること、高橋文太郎「三河段戸の秋」(『俚俗と民譚』第15号p15)には撮影者名が記載されていないことなどから撮影者・撮影年月日等は推定。写真裏面上部に違う台紙(黒色)から剥がした跡がある。 昭和8(1933) 愛知県北設楽郡田口町 写真資料 日本常民文化研究所
4 北設楽郡田口町の馬市にて軒先で手綱をひかれる馬二頭 村上清文・早川孝太郎 ・ア-25-18-1~6は同じ台紙に貼られている。撮影場所は同じ台紙に貼られているア-25-18-3がア-25-19と同一場面であることから北設楽郡田口町と推定した。本資料は高橋文太郎・村上清文・窪田五郎による昭和8年9月4日の段戸山登山時の写真と考えられる、ただし、典拠となる「原田日記」は非公開であること、高橋文太郎「三河段戸の秋」(『俚俗と民譚』第15号p15)には撮影者名が記載されていないことなどから撮影者・撮影年月日等は推定。写真裏面上部に違う台紙(黒色)から剥がした跡がある。 昭和8(1933) 愛知県北設楽郡田口町 写真資料 日本常民文化研究所
5 北設楽郡田口町の馬市にてセリ場を囲む見学者と馬 村上清文・早川孝太郎 ・ア-25-18-1~6は同じ台紙に貼られている。撮影場所はア-25-19と同一場面であることから北設楽郡田口町と推定した。本資料は高橋文太郎・村上清文・窪田五郎による昭和8年9月4日の段戸山登山時の写真と考えられる、ただし、典拠となる「原田日記」は非公開であること、高橋文太郎「三河段戸の秋」(『俚俗と民譚』第15号p15)には撮影者名が記載されていないことなどから撮影者・撮影年月日等は推定。写真裏面上部に違う台紙(黒色)から剥がした跡がある。 昭和8(1933) 愛知県北設楽郡田口町 写真資料 日本常民文化研究所
6 北設楽郡田口町の馬市にてセリを見学する人々 村上清文・早川孝太郎 ・ア-25-18-1~6は同じ台紙に貼られている。撮影場所は同じ台紙に貼られているア-25-18-3がア-25-19と同一場面であることから北設楽郡田口町と推定した。本資料は高橋文太郎・村上清文・窪田五郎による昭和8年9月4日の段戸山登山時の写真と考えられる、ただし、典拠となる「原田日記」は非公開であること、高橋文太郎「三河段戸の秋」(『俚俗と民譚』第15号p15)には撮影者名が記載されていないことなどから撮影者・撮影年月日等は推定。写真裏面上部に違う台紙(黒色)から剥がした跡がある。 昭和8(1933) 愛知県北設楽郡田口町 写真資料 日本常民文化研究所
7 北設楽郡田口町の馬市にて競り人に囲まれる仔馬 村上清文・早川孝太郎 ・ア-25-18-1~6は同じ台紙に貼られている。撮影場所は同じ台紙に貼られているア-25-18-3がア-25-19と同一場面であることから北設楽郡田口町と推定した。本資料は高橋文太郎・村上清文・窪田五郎による昭和8年9月4日の段戸山登山時の写真と考えられる、ただし、典拠となる「原田日記」は非公開であること、高橋文太郎「三河段戸の秋」(『俚俗と民譚』第15号p15)には撮影者名が記載されていないことなどから撮影者・撮影年月日等は推定。写真裏面上部に違う台紙(黒色)から剥がした跡がある。 昭和8(1933) 愛知県北設楽郡田口町 写真資料 日本常民文化研究所
8 北設楽郡田口町の馬市にて軒先で手綱をとられる馬二頭 村上清文・早川孝太郎 ・ア-25-18-1~6は同じ台紙に貼られている。撮影場所は同じ台紙に貼られているア-25-18-3がア-25-19と同一場面であることから北設楽郡田口町と推定した。本資料は高橋文太郎・村上清文・窪田五郎による昭和8年9月4日の段戸山登山時の写真と考えられる、ただし、典拠となる「原田日記」は非公開であること、高橋文太郎「三河段戸の秋」(『俚俗と民譚』第15号p15)には撮影者名が記載されていないことなどから撮影者・撮影年月日等は推定。写真裏面上部に違う台紙(黒色)から剥がした跡がある。 昭和8(1933) 愛知県北設楽郡田口町 写真資料 日本常民文化研究所
9 中央本線瑞浪駅にて犬が曳く荷車 高橋文太郎・村上清文・早川孝太郎 ・本資料は高橋文太郎・村上清文・窪田五郎による昭和8年9月6日の段戸山登山の帰路時の写真と考えられる、典拠は早川孝太郎全集ⅩⅡp519上段の写真(ア-25-35)の撮影年月日による。写真裏面上部に違う台紙(黒色)から剥がした跡がある。 昭和8(1933) 岐阜県恵那郡中央本線瑞浪駅 写真資料 日本常民文化研究所
10 粟島浦村内浦の浜と洋上に浮かぶ粟島丸 早川孝太郎・村上清文 ・高橋文太郎1933「越後粟島採訪録」『旅と伝説』第六年十一月号p.12に「同島滞在は昭和八年五月二十一日夕より二十四日朝迄」とあり、船で渡った二十一日と考えられ、撮影年月日はこれによった・粟島での撮影写真の印画紙は「50ミリ代×70ミリ代」「70ミリ代×100ミリ代」「40ミリ代×60ミリ代」の三種類で、ア-39-41、42は粟島丸の船上での写真で、41には高橋文太郎と早川孝太郎が、42には村上清文が写っており、粟島を含む越後三面調査(昭和8年5月19日~24日)の調査者である渋沢敬三、高橋、早川、村上の内、写っていない敬三が、これら「50ミリ代×70ミリ代」の撮影者と考えられる。また、アチック写真の「アルバム」でこれまで高橋撮影と判明している印画紙のほとんどが「70ミリ代×100ミリ代」の大きさであることからこれを写したのは高橋文太郎となる。残りの写真印画紙「40ミリ代×60ミリ代」は早川孝太郎・村上清文となり、写真機自体が敬三の借り物だとしても撮影者はこの二人になると考えられる。 昭和8(1933) 粟島浦村内浦 写真資料 日本常民文化研究所
11 浜にて漁で獲った魚の荷揚げ、または粟島丸からの荷下ろしをする人々 早川孝太郎・村上清文 ・高橋文太郎1933「越後粟島採訪録」『旅と伝説』第六年十一月号p.12に「同島滞在は昭和八年五月二十一日夕より二十四日朝迄」とあり、当該写真左手奥に粟島丸と考えられる船が見え、撮影日は船で渡った二十一日、あるいは船で帰る二十四日と考えられ、撮影年月日はこれによった・被写体の中に「大漁」と書かれた旗が見えることから捕った魚の荷揚げ、または写真左後方に見える粟島丸からの荷下ろしをしていると考えられる・粟島での撮影写真の印画紙は「50ミリ代×70ミリ代」「70ミリ代×100ミリ代」「40ミリ代×60ミリ代」の三種類で、ア-39-41、42は粟島丸の船上での写真で、41には高橋文太郎と早川孝太郎が、42には村上清文が写っており、粟島を含む越後三面調査(昭和8年5月19日~24日)の調査者である渋沢敬三、高橋、早川、村上の内、写っていない敬三が、これら「50ミリ代×70ミリ代」の撮影者と考えられる。また、アチック写真の「アルバム」でこれまで高橋撮影と判明している印画紙のほとんどが「70ミリ代×100ミリ代」の大きさであることからこれを写したのは高橋文太郎となる。残りの写真印画紙「40ミリ代×60ミリ代」は早川孝太郎・村上清文となり、写真機自体が敬三の借り物だとしても撮影者はこの二人になると考えられる。 昭和8(1933) 粟島浦村内浦 写真資料 日本常民文化研究所
12 浜にて漁で獲った魚の荷揚げに集った人々と子供たち 早川孝太郎・村上清文 ・高橋文太郎1933「越後粟島採訪録」『旅と伝説』第六年十一月号p.12に「同島滞在は昭和八年五月二十一日夕より二十四日朝迄」とあり、ア-39-48と関連した写真と考えられ、ア-39-48の写真左手奥に粟島丸と考えられる船が見え、撮影日は船で渡った二十一日、あるいは船で帰る二十四日と考えられ、撮影年月日はこれによった・天秤棒のようなものを持った男性がみえる・粟島での撮影写真の印画紙は「50ミリ代×70ミリ代」「70ミリ代×100ミリ代」「40ミリ代×60ミリ代」の三種類で、ア-39-41、42は粟島丸の船上での写真で、41には高橋文太郎と早川孝太郎が、42には村上清文が写っており、粟島を含む越後三面調査(昭和8年5月19日~24日)の調査者である渋沢敬三、高橋、早川、村上の内、写っていない敬三が、これら「50ミリ代×70ミリ代」の撮影者と考えられる。また、アチック写真の「アルバム」でこれまで高橋撮影と判明している印画紙のほとんどが「70ミリ代×100ミリ代」の大きさであることからこれを写したのは高橋文太郎となる。残りの写真印画紙「40ミリ代×60ミリ代」は早川孝太郎・村上清文となり、写真機自体が敬三の借り物だとしても撮影者はこの二人になると考えられる。 昭和8(1933) 粟島浦村内浦 写真資料 日本常民文化研究所

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