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  資料名 著者 内容 年代 地域 データベース 所蔵  
1 三田綱町邸、庭に立ち白いカードを持つ高木一夫 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「澁沢子邸裏面ヨリ高木一夫氏」より、この場合の裏面は正面に対しての裏面 昭和10(1935) 東京三田綱町邸 写真資料 日本常民文化研究所
2 芝区二ノ橋付近、早川犬猫診療所、二橋家畜病院、路面電車のレール 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「芝ノ二ノ橋附近」より 昭和10(1935) 東京都芝区(現港区)二の橋附近 写真資料 日本常民文化研究所
3 三田綱町邸、庭に立つ高木一夫とテニスラケットを持った渋沢黎子 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「澁沢子邸トオ嬢様ト高木一夫氏」より 昭和10(1935) 東京三田綱町邸 写真資料 日本常民文化研究所
4 アチックミューゼアムの台所に座る市川信次 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「アチツクノ台所ト市川ヒツトラー」より 昭和10(1935) アチックミューゼアム 写真資料 日本常民文化研究所
5 祭魚洞文庫内の様子 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同状況の写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「祭魚洞文庫ノ一部」より 昭和10(1935) アチックミューゼアム祭魚洞文庫 写真資料 日本常民文化研究所
6 祭魚洞文庫内の様子、机上『辞苑』の上のチューリップと花器 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「祭魚洞文庫ノ一部」より 昭和10(1935) アチックミューゼアム祭魚洞文庫 写真資料 日本常民文化研究所
7 芝区二ノ橋付近、古川(渋谷川)、入間川(いりあいがわ)、川岸の家々 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「芝区二ノ橋附近」より・写3-12-6撮影と同場所(おそらく橋の上)よりパーンして撮られたと考えられる 昭和10(1935) 東京都芝区(現港区)二の橋附近 写真資料 日本常民文化研究所
8 芝区二ノ橋付近、古川(渋谷川)、入間川(いりあいがわ)、川岸の家々 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「芝区二ノ橋附近」より・写3-12-5撮影と同場所(おそらく橋の上)よりパーンして撮られたと考えられる 昭和10(1935) 東京都芝区(現港区)二の橋附近 写真資料 日本常民文化研究所
9 内側から見た三田綱町邸門 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「澁沢子邸門内側ヨリ見ル」より 昭和10(1935) 東京三田綱町邸 写真資料 日本常民文化研究所
10 三田綱町邸と庭、自転車で遊ぶ子供とそれを押す女中 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「澁沢子邸裏面ヨリ」より、この場合の裏面は正面に対しての裏面 昭和10(1935) 東京三田綱町邸 写真資料 日本常民文化研究所
11 アチックミューゼアム(建物)と市川信次 吉田三郎 ・写3-12-13の白色の「東京都芝区三田綱町十番地 澁澤敬三」と印刷された封筒にはいっていたものヵ、ネガ・渋沢フィルム整理整理カードには「吉田三郎 練習分」とあり・昭和10年(1935)3月13日から昭和11年(1936)3月12日まで『男鹿寒風山麓農民日録』で使用する写真機撮影の練習の為に主に吉田三郎によって撮影されたもの、昭和10年2月1日に吉田三郎著『男鹿寒風山麓農民手記』出版記念で渋沢邸を弟四郎と共に訪れているが、2月11日には敬三が紀州・伊勢へと旅行に出かけているところから、写真現像の期間からも撮影関連はこの日ではなく、3月2日「例会、吉田三郎氏上京を記念して」~3月9日「例会、桜田勝徳氏上京」の両日に吉田三郎が参加していることからこの期間前後に撮影されたと考えられる・題名、撮影地は同一写真である吉田総恵さん所蔵吉田三郎アルバム「血係ノ面影 第二集」台紙記載「アツチク、ミュゼアム 市川信次師」より 昭和10(1935) アチックミューゼアム 写真資料 日本常民文化研究所
12 粟ヅボケ 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-44-43のネガ・『男鹿寒風山農民日録』』第四一図「粟ヅボケ」のキャプションに「10月24日」とあり・『男鹿寒風山農民日録』「十月十九日(土)」p.215に「かうして刈つた粟を十二把を一緒にして立て、穂先の處をツナギでシバつて置くのです。これを一ヅボケと申してゐます。」とあり 昭和10(1935) 寒風山麓脇本村三嶋神社裏畑 写真資料 日本常民文化研究所
13 稲ケシ、先にかけた稲杭から別の杭にかけかえるところ 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-44-37のネガ・『男鹿寒風山農民日録』第三六図「稲ケシ 1(先にカケた稲杭から別の杭に持ってゆく。)」のキャプションに「10月24日」とあり・『男鹿寒風山農民日録』「十月十五日(火)」pp.209-211に「前にかけてある穂ニヨのそばに一本の杭をついてその杭へかけ返すのです。即ち、今まで上であつた稲が今度は下になる訳です。かけ方は前の刈つた時のかけ方と反対です。前者は重に穂を乾すのが目的であり、後者は、莖と穂を乾すのが目的である。ために前者は杭を中心にして穂を出来るだけ外部に出さうとするに反して、後者は出来るだけ元莖の方を外に出さうとするのです。そしてそのかけ方は杭を中心にして矢張り四方に元莖が出る様にします。そして元莖の方を少しくつげて、穂の方をひろげます。」とあり 昭和10(1935) 寒風山麓脇本村本家宅下の田 写真資料 日本常民文化研究所
14 稲のソクタテ(畔にまたがせて立たせた縦から見た所) 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-44-35のネガ・『男鹿寒風山農民日録』第三五図「稲のソクタテ 縦」のキャプションに「10月8日」とあり・『男鹿寒風山農民日録』「十月三日(木)」p.198に「畔にまたがせて立てることを、束立(ソクダテ)と申してゐます。束立は莖を上方に、籾の方を土につく様にしてゐた。それが為に數週間も杭にかけないでゐると籾は発芽するといふことが往々あつたと聴く。それが改良されて今日では刈つたら即時に杭にかける様になりました。」とあり 昭和10(1935) 寒風山麓脇本村吉田三五兵衛馬喰田 写真資料 日本常民文化研究所
15 富永協同組合作業場 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-45-24のネガ・撮影者はアルバム45全体に関わっている吉田三郎と考えられる・作業場右手前にある石碑現存(2007年3月29~31日の常民研調査) 昭和10(1935) 寒風山麓大倉村踊場富永協同組合作業場 写真資料 日本常民文化研究所
16 藁にお 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-44-44のネガ・『男鹿寒風山農民日録』第四三図「藁にほ」のキャプションに「11月1日」とあり・『男鹿寒風山農民日録』「十月十九日(土)」p.214に「藁ニホは円型にして積みます。兼造と二人で積む。兼造は藁を二把ヅツ私に投げて私はそれを受け取つて積むのです。積み方は即ち藁の元莖の方を外部にして、穂先の方を内部にする様に、円型に重ねてゆく。二回もまはれば中央を一廻位積んで廻る。中央にも藁をやらねば中央が穴になるし、又積んだ藁が外部にくずれやすいのでそれを食ひ止める為からしても是非外部二廻に中央一廻の割合に積まねばなりません。高さも大きさもその人に依つて違ひます。今日私のやつた場合の大きさは直径九尺、高さ七尺、但し高さ七尺とは雨打ぎはまでの處です。そこから更に屋根の如く、円型にして上になり次第にとがらして積んでゆく。即ち一段ごとに三四寸のコウバイにして積むのです。そしてノマをかけゲボシをかけ縄をその上から六方に張つて出来るのです。」とあり 昭和10(1935) 寒風山麓脇本村吉田豊治氏宅 写真資料 日本常民文化研究所
17 蕎麦ヅボケ 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-44-42のネガ・『男鹿寒風山農民日録』』第四二図「蕎麦ヅボケ」のキャプションに「11月1日」とあり・『男鹿寒風山農民日録』「十月二十六日(土)」pp.220-221に「ソバ刈りをしたりそれをツボケたりする。」とあり 昭和10(1935) 寒風山麓脇本村吉田三郎畑の隣畑 写真資料 日本常民文化研究所
18 大豆ヅボケ 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-44-40のネガ・『男鹿寒風山農民日録』第三九図「大豆ヅボケ」のキャプションに「11月1日」とあり・『男鹿寒風山農民日録』「十月二十四日(木)」pp.218-219に「大豆を拔て豆ヅボケにして日光に乾して置き、後晴天の日を見て大豆押しをするのです。」とあり 昭和10(1935) 寒風山麓脇本村吉田三郎畑の隣畑 写真資料 日本常民文化研究所
19 稲を馬に付けて運ぶ(シレボイ)男の子 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-45-25のネガ・撮影者はアルバム45全体に関わっている吉田三郎と考えられる 昭和10(1935) 寒風山麓脇本村萱積場の道路 写真資料 日本常民文化研究所
20 稲マロギ 吉田三郎 ・収納されていた封筒見当たらず・渋沢フィルム整理カードには[アルバム背表紙記載データ]欄に「吉田三郎氏撮影」とあり・ア-44-41のネガ・『男鹿寒風山農民日録』第四〇図「稲マロギ」のキャプションに「11月1日」とあり・『男鹿寒風山農民日録』「十月十一日(金)」pp.204-205に「稲マロギは普通一束五把、即ち十五把を一マロギにするのです。先づ右手で穂ニヨから一把づつ稲を持ち出して左手にのせかけます。五把をならべた右手で腰に結びつけてあるツナギを一本取り出してツナギの先端を左手で握り、一方先端を右手に持つて、左手にのせかけてある稲にツナギを添はせて逆に返して、自分の足元の處に置く。さうするとツナギは稲の下になつて即ちツナギの上に稲が五把ならべられる訳です。その上に次ぎは四把の稲を反対につげる。そして又その上に六把の稲を最初の五把の稲と同様にしてならべあげてツナギで力一ぱいしめて後ツナギの両方の先端を一緒にして両方の手でねぢり廻してそれで良い訳です。」とあり 昭和10(1935) 寒風山麓脇本村吉田三郎カヤ積場 写真資料 日本常民文化研究所

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